正しさの岸は見えてるはずなのに水の真中でまだ立ち尽くす
行くべきと知る道だけが遠ざかるこころはいつも地図を持たない
ほどくべき糸と知りつつ指先は結び目ばかりたしかめている
理は白くこころは淡く暮れてゆくどちらも嘘にできないままで
明け方の空に境はないけれど青とも白とも呼べずに眺める
google1ddf4f7d92ae845a.html
正しさの岸は見えてるはずなのに水の真中でまだ立ち尽くす
行くべきと知る道だけが遠ざかるこころはいつも地図を持たない
ほどくべき糸と知りつつ指先は結び目ばかりたしかめている
理は白くこころは淡く暮れてゆくどちらも嘘にできないままで
明け方の空に境はないけれど青とも白とも呼べずに眺める
東海道線のボックス席は良い。周囲の人に迷惑をかけないかぎり自由だ。ここで泣いたことは数知れず、べろべろなまま、人もまばらな車内で友達と写真を撮ったり、今はアサヒのロング缶を飲んでいる。
さっきまで彼氏と夜ご飯を食べていた。今日は近くでライブがあったらしくお店が混んでいて、私の方が先に着いて並んでいた。彼と会うまで一人で立っている時間は心細い気持ちになる。本を開くけどいまいち内容が頭に入ってこない。彼は彼で急いで来たみたいで顔にすこし汗をかいて、開口一番暑い…とつぶやいた。最近は私が怒ってばっかりだったから、可哀想なことにきっと怯えていたと思う。急いで来てくれてありがとうと言ったら笑顔がもどった。
昨日なにしてたの?と聞かれたから、友達とお酒飲んでたよって話したら、またお酒飲んだの?と驚かれた。また、というか休みの日は基本飲みたい。なんなら休みじゃなくても夜は飲みたい。でも今日はお酒を頼まなかったから、飲まないの?って聞かれたけれど、私は基本声がでかいのだが、お酒を飲むとそれが増すよねって前に彼氏に言われたことを引きずっているので今日はやめとく、と話した。あと、前に会った時に飲みすぎた上にその回のお会計は彼氏に"払わせた"ので、取り皿によそった醤油で味のついた空芯菜を箸で突きながら一回だけ謝った。彼が良いよって言うから安心した。やさしいね、と言った私の声は騒がしい店内で彼に届いていたかは分からない。お店は依然混んでいて、店員さんも忙しなく動いていたのでご飯を食べ終えたら長居せず早々に出て、まだ営業中のスーパーでアイスを買って食べながらぷらぷら歩いたり、空いているベンチに座ったりしていた。途中で少し雨が降ったが彼が折りたたみ傘を持っていて濡れずに済んだ。この人と会っているとき、ここ何回かはずっと雨だ。私はあなたほどの雨女は見たことないと言われるくらいの雨女なのだが、彼もまあまあ雨男だと思っている。雨女とか雨男とかの概念は初めて聞いたって言ってた。
私は後楽園駅から丸の内線で帰りたくて、彼は水道橋駅から三田線で帰りたかったようなのだが、改札前で私が散々駄々をこねて、最後は彼が折れて丸の内線で途中まで一緒に帰った。なんなら後楽園のホームで電車を2本見送ったりもした。仕事もまだ途中で、帰ってから仕事しなきゃ、と言っていたし、いつもTime is moneyだから…と言っている彼が私のためにはWaste timeしている、と思うだけでもう満たされてしまう。ちょろい。
家に着いてさっさとシャワーを浴びてもう一缶だけ飲み直した。レモン果汁を入れれば即席ドイツ風ビアカクテルになる。
とはいえ正直なところまだまだ突っ込みたいところは多いのだが…彼氏が私に会えて嬉しそうだったので今日は一旦良いことにする。一旦ね、というのは半年前くらいから私の口癖なのだが、最近彼氏にも移っているみたいだ。でも、一旦ね、をいつまでも続けてはいられないところが人間関係って切ないなと思う。
その人だけが持つ特別な倫理観とかを見せられると、、そこにぐっときてしまうんだなあ。
ヤナーチェクのシンフォニエッタってムーンライトセレナーデと反対のところにある曲だと思う。聴いていても孤独にならない。
大阪のフェルメールの展示行きたいと思って友達と応募したけど外れた。2回目の抽選は7月だったかな?応募するか友達と話して検討中。
だけどさ、今日表参道に行く電車に乗りながら考えていたことがあって。
例えば私がウィーンで見てたクリムトやシーレ、アムステルダムで見たフェルメールやレンブラント、パリで見たラファエロやダヴィンチって、全部こう、、その土地の常設展で、"常にそこにあるもの"として飾ってあって、その土地の気候とか、美術館の雰囲気とか内装とか照明とか、何年も展示されて何万人がそこで鑑賞してきた積み重ねの空気感とか、わざわざ飛行機で日本から遠い異国まで来て"やっと出会えた…!"っていう気持ちも含めて、作品が成り立っているような気がして、やっぱり日本の特別展で見るのは少し違うのかなって気がしてきた。
日本の特別展で見るのは、たぶん、作品そのものを視覚的に確認した、とか、本物が目の前にあった、という意味では、ちゃんと「見た」ことにはなると思う。本物の存在感という面ではは日本でも受け取れる。
でも、「作品を鑑賞した」とは別になるのかな、とか。
作品の前に立つまでの過程、街の空気、美術館の建物、常設展の流れ、他作品との関係、その国の光、そこで何十年も見られてきた時間の層まで含めて、作品が属している世界に入って鑑賞することが、私にとってはより多くの価値がある、と感じている気がする。
特別展のようなものだと、その絵画との出会いのhistoryが省略されてしまうんじゃないか、というか。
たとえばマウリッツハイス美術館にこの絵を見に行って、どの美術館にも目玉絵画はあるけど、それってだいたい、美術館の、真ん中〜終わりくらいに展示してあって、早くあの絵画見たいなぁ、って思いながら、ちょっと興味あるようなないような展示とか、あ、この絵画もここにあったんだー。みたいなこと考えながら歩く、その先にあるあの感じ。それがあるから、目当ての作品との出会いにも厚みが出るように思える。
私にとっては、「真珠の耳飾りの少女」を見た、だけじゃなくて、"マウリッツハイスを歩いた記憶の中に、あの絵画があった"という体験がしたいんじゃないかな、とか。
一方で、大阪で見るのは、
「真珠の耳飾りの少女」に会ったというより、
「真珠の耳飾りの少女の来日イベント」に参加したに近いのかもしれない。
とか。
もちろん、それはそれで価値はあることはわかっている。
昨日はめっちゃ楽しかったなー!2年やってるゲームの友達2人と仕事終わりにやきとん食べてお酒飲んできた!
イギリスで買ったお菓子あげようって包んで持ってきたら、友達の1人が買いたてのワッフルを待ち合わせの時にはい、ってくれて、もう1人が私もお土産あるんだ、って言ったから、すかさずわたしもある!って言ったら、交換だねって笑い合って。やきとん食べて2件目もんじゃとか良いよねーって話してたけどそのお店の串焼きが美味しいし、なんだか居心地も良いしで結局終電間際までそこでずっと話してた。
世代も職業も家族構成も三者三様な私たちが集まってるってほんとにすごいなぁ。特に2人はオンラインの友達と会うの初めてって言ってたし。私が会いすぎなだけかもしれないけど。
ワッフルは今日の朝ごはんに食べたんだけどトースターで温めたらさくふわになって、コーヒーと一緒に食べたらすごくしあわせな気持ちになった。 もう1人の友達がくれたのは、羊羹の金魚が入ったマスカットのゼリーだった!冷蔵庫で冷やしていて明日食べるつもり。大人になってからって、能動的に動かないと人との出会いの数も減るし、大人になってからできる友達ってすごいなあって思う。嬉しいよね。ハグしてばいばいしたよ。また遊ぼうね。
彼は私に対してどうしたい?どうしてほしい?どう思ってる?ってよく聞いてくるから、正解の答えじゃなくて自分の正直な考えを言えばいいのに…。模範解答が欲しいって常に思ってしまう。自分の気持ちより、正解の答えを考える癖があるせいで、自分の本当の気持ちの輪郭を見つけるまでに何日もかかってしまう。
ありのままの自分でいるのが怖い、自分の気持ちを見せるのが怖い。常に他人の発言や行動だけが正解で、自分は全部間違ってるんじゃないかって思う。
いつも怯えている。いつも上手くできなかったらどうしようと考えている。うまく笑えなかったら、とか、うまくこなせなかったら、とか、うまく眠れなかったら、とか。上手くやりたい、と強く思うほど何も言えない。言いたかったことが、メモ帳にばかり増えていく。待つのだって本当は苦手なのに。