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ドレスは脱ぎ捨てた

更新はまちまち。

11/3

深夜にスタンドライトの明かりだけで読書していてふと、完璧だと思った。完璧に絶望している。持っている本は既に何回も読み返している。繰り返し同じ本を読むのは嫌いじゃない。200ccしか入らない小さなグラスにはホットミルクが入っていて、注いだラムの香りが部屋中に広がっている。

誰かのようになりたいと思ったり、なろうとするのをやめたい。私は誰かではないのだから誰かのように動いたところで当然噛み合う訳もなく。もっと私が私でいてもいいと思えるように、誰かにとって、私には私なりの役割や立場があるとちゃんと理解して、それを忘れないで行動できるようになりたい。分かっているはずなのに、時々忘れてしまう。その度に失敗したと感じる。私は私なのに他の誰かのように振るまってしまいたくなる。なぜかは分からない。自分のことが好きじゃないからと考えるのが一般的な気がするけれど、文にするほど自分のことが好きじゃないというわけではない。自分のことはそれなりに好きな一方で、嫌気が差すときもそれなりにある。嫌気がさしているときに他の人間になりたがったりするのかもしれない。私は私を見捨てることができないしきっとしない。何回も絶望してきたし、きっとこれからも何回も絶望するし、ずっと引きずるし。それでもより良い私、より良い人生であろうともがくしかないような気がする。誰かのようにならなくても良いと、分かれるような私。死ぬ直前にこれをしておけば良かったと後悔しそうなことをしているときは良い時間だ、という文章を見たことがある。そう思う。この文章を見てから良い時間を、良い人生を生きていると思えている瞬間を自覚するようになった。コンサートハウスに3日連続で通ったり、街の教会を巡ったり、往復1万5千円でイタリアに行ったり。

だけれど私は自由になったことなんて一度もないような気がする、自由って才能だと思っている。才能とは、我慢とか犠牲とか自分の希望や意思とは関係なく襲ってくる日常の喜怒哀楽とか、あらゆる抑圧の中ですら、例えばスポーツや音楽や芸術に対してたゆみない努力ができることなのかもしれないと思っている。自由と才能と努力はセットなのかもしれないとも思った。私は抑圧されたことはほとんどないが、自由にもなったこともあまりないと思う。自由にピアノが弾けるとか、地面を走れるとか、バドミントンができるとか絵を描けるとか踊りを作れるとか。何か1つのことに対してとてもたくさんの努力ができたら、いつか自由になれる日が来るかしら。生まれてからずっとそれを探している気がする。