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3/19 絶対

人にしたことは自分に返ってくるし自分がされたことはその人に返っていくと信じてるから嫌なことされても仕返しとかしないで自分だけは真面目に生きていきたい

きっとね

嫌なことするのって疲れるでしょ

 

時々邪悪な心も働いてしまうけれど

 

人の気持ちはいつかきっと変わってしまう

その時の気持ちが本物でも

だから空とか星とか花とか

音楽とか建物とか絵画とかティーカップとかが好き

裏切らないでいつもそこにいてくれる

 

絶対的だから

絶対ね

3/11 正しいこと

同じアパートの友達が優しいので、ボロボロ泣いた。2日連続で。人前で悲しさとか悔しとかの感情をさらけ出して泣くなんて、いつぶりだろう。あんまりそういう場面に陥ることがないと思う。一緒に泣いてくれる人がいて良かった。

正しいことや理屈を脳で理解していても、それでも精神としては、正しさと反することを思ったり望んでいる、自分が苦しむとわかった上で。恋が精神疾患であろうと盲目であろうと、そんなことはなんでもいい、そうかもしれなくても、そうじゃないかもしれなくても

理屈や正論があったところで今の自分の正直な気持ちは本物なのだから、実在していて、無理矢理に消すことはできない。たとえ正しさに背いていても本心がある限り、正しさと本心が食い違う限り、解決策を考えることをやめてはいけないでしょ

昨日はもっと諦めついてたはずなんだけどなー

そう簡単にはいかないのね

まだ見ぬ誰かとの明日より今好きな人との明日が欲しいんだもの。ほんとうは。

3/10 3月

ウィーンに戻った。それでもやはりいつまでも心憂い日々が続いていて晴れる兆しは、なんといまだにない。どこから間違えたのか?を考え出してもキリがないし仕方がない。いっぺんに何もかもがどん底に落ちることは今までもあった。いつもならその後何もかも最高潮に上がっていくはずが、今度ばかりはそうもいかなさそうで。あんなに望んでいたものが手に入って、嬉しかったはずのことも、今となっては手放しに喜ぶことができない。

 

昔はよく、私はまた会いたいけれど向こうはもう会いたくないかもしれない、次会うことはないかもしれないと思いながら人と会っていた。

そのことを友達に話した時、その人との次はなくてもまた新しい誰かとのはじめましてがあるよ、未来をマイナス思考で気にする必要はあんまりないよ!!と言ってくれて、

最初は、確かに。そうかもしれない、と思ったし、その友達が私のために言葉を考えてくれたことが嬉しかった。

少し経ってから、いやでも新しい誰かとの初めましてより今一緒にいたい人との次が大事だわ、と思った。

今は、今仲良くしてくれている人達とも、はじめましてからはじまったわけだし、はじめまして、というのはあんまり悪いことではないのかもしれないと思うようになった。私の経験が増えたというのもあるけれど、やっぱり彼の言葉のおかげだと思う。

 

一般的に3月や4月というのは、出会いとか別れとかの時期とされているけれど、学校にも会社にも行っていない私にはあまり関係のないことだと思っていた。なのに、なぜか私にも出会いや別れを考えさせられるようなことが3月にはよく起きる。

色んな人と仲良くなったけれど、ずっとその関係が続いているというわけもなく疎遠になった人もいる。そういう人との次はないだろう。

これからも繰り返していくし、別れがあるたびに、絶望するし、孤独な気持ちになることもあるけれど。柔らかさと温かさで満たされるような出会いもちゃんとあるんだと実感した。それでも私が諦めきれないまま終わる仲もこの先あるかもしれない。だから自分に言い聞かせる。

 

私が思うより世界は広い

そうであってほしい

2/16 途方も無い

空にぽっかり浮かぶ月の下を歩いている時、フローリングに寝そべって小説を読んでいる時、何も表示されない携帯のディスプレイ画面を祈るようにじっと見ている時、永遠のようで途方も無い絶望を感じる

どうしようもない、どうにもならない、出口のないトンネル、底なしの湖、或いは広い地下鉄で迷子になった時のような、一生このままなのかもしれないという不安。待つことしかできない私。本当に抜けられるのだろうか?本当に、待っていれば変わるのか?本を読んだり昼寝をして毎日その場しのぎでやり過ごしているうちに事態が悪化してしまうのでは無いだろうか。どうするのが正解なのか誰かが教えてくれる訳でもないし、

2/15 損得勘定の優しさ

爆弾の雨が降る戦場で強くなってる暇はない。撤退するんだよ。これは作戦だ。

ってツイートがある。大好きな人の言葉。

 

それでもって何が爆弾で何が試練なのかは他人には分からないので神様は乗り越えられない試練を与えないとかは、自分がそう思うことによって頑張ろうとすることができるのならば自分のためだけに使って、他人には言わない方がいいと思う。その人を見てその人のことを想って言葉を作っているんじゃなくて、ただ自分が思いついた良いことみたいな言葉を良い放った挙句に良いこと言って人を助けた気になってる人間を見ると、いやちげーーーよ!ってぶん殴りたくなる。見当はずれなアドバイスや励ましは傷つく。

 

以前はそういう見当はずれなこと言われるといやそうじゃないんだ、こうなんだ、って弁解したくなっていたけれども、今度は逆に、私のことちゃんと見てくれている人は分かってくれるし分かろうとしてくれているからあなたには分かってもらわなくてもいいや、なんて思うようになってきた。

 

人生に必要なものが手に入っていない、或いは手に入る目処のない、そういった余裕のない人間から繰り出される、優しくした方が得だからってところからくる本心じゃない優しさとか、こうすれば(こう言えば)喜ぶんでしょ?って気持ちが見え透いてる優しさに触れると心が冷めたりそんな無理しなくていいよと思う。損得勘定の優しさって分かりやすい。

でも本心の優しさに触れると心が温かくなって満たされるし、どうしようもなく泣きたくなるくらい心が動かされる時がある。

 

とかなんとか書いていたら、1番大好きな女友達から頭のおかしい友達の話のラインが来たんだけれど、3回読み返しても訳がわからなかった。びっくりするような人間ってどの年代にもどの所にも存在しているものだね〜

 

ラインの内容は、その頭の中おかしい友達の弱さや怠惰を自分のせいにされている、というものと、常に嫌味を言ってくる、というものなんだけれど、自分のダメなところを他人に押し付けるのは本当に頭がおかしいと思う。というか自分の弱いところとかダメなところって、自分が認めなくて誰が認めてくれるの?誰も受け入れてくれないから自分が受け入れて、私はこんなだけどまぁいっかって認めて善処するものなんじゃないの?それを僅かな誰かが偶然、受け入れたり認めてくれることがあれば万々歳だ。でもそうじゃない人間に対して、私がこうなのはあなたがこうだから!云々!は、本当に意味が分からない。自分の弱さや怠惰が招いた結果を、他人のせいにできる図々しさや傲慢さ。自分を過信している。

嫌味を言ってくるという内容に対しては、自分が1番だと思っていたりそう思いたいけど、確信を持てるようなことがなくてどこか自信がないんだろうなと思う。そもそも確信を持てるようなことが何もないのに自信だけ持っているのもおかしな話だ。根拠のない自信を持っていてもいいけれど、根拠のない自信を持っていることに対して自信がないから他人を落とすとか、優位になりたいけどそうなれない苛立ち、滑稽に見える。そういうのって、他人にぶつけてもやっぱり他人は受け入れてくれない。だから自分で認めて受け入れることが1番の救いでしょ。自分は弱くても怠惰でも可愛いんだもの。

 

私も大概頭おかしいけど、他人に自分の頭のおかしさを撒き散らすのは嫌だなー

頭おかしいなりに謙虚に生きたい

2/12 時間

今日は約7ヶ月ぶりの銀座で、歯医者に来た。銀座は東京の中でも特に好きな街だ。歯医者は毎回のことながら検診のみで数分で終わったのでその後GINZA SIXの蔦屋に行ってハインリヒ・ハイネの詩集、ヒットラーが現代にウッカリ現れてしまったけれどもそれがヒットラーのモノマネをしている人と勘違いされて現代人にもみくちゃにされるというあらすじの小説や切なく震える純愛ミステリー、と書かれた知らない作家の小説、純喫茶が紹介されている本、ピカソなどの芸術家が愛したスイーツ、ウィスキーのアレンジレシピ、の6冊を購入した。

小説を読んでいる時は嫌なことを考えなくていいし、他人に怯えることもないし、見たくないものを見ることもなければ聞きたくないことが耳に入って来ることも、まずない。

1番好きな小説なんかは1、2日に1回開く。でも1、2日に1回開くと決めているわけではなくて、無意識にそれを読みたくなってしまう。

今は1日のほとんどを読書に費やしていると思う。あまり長く眠れないし、欲しいものも本以外ないし、食欲もないため最近は家で何を食べたかの記憶が薄い。

こういうのを現実逃避というのだろうか?上等だ。私が何もしなくても、私に都合の悪い事実や悲しいこと、怒れることはあっちからどんどんやって来るのだから私はそれに潰されないように逃げるべきだ。その権利がある。

1月の2週目からインフルエンザにかかり、その後副鼻腔炎になり約3週間死体ごっこ状態になってから、今月に入ってやっと回復したと思ったら今度は私のメンタルをことごとく削っていくような出来事が重なったりそんな言動をする人間がいたりして。あぁ、心身共に死んだように生きている。

人生という膨大な時間という暴力、或いは恐怖。何の為に、起きて、ご飯を食べて、携帯を開いたり、落ち込んだり、電車の中で1人で泣いたり、或いは何の為に生きているのかも、今はよく分からないけれど明日も明後日も読む小説があるから今はとりあえず生きていてもいいし、起きられるし、ご飯も食べられる。偶には出掛けても良いと思う。小説を買う為に。

 

「「同意なしに自分を生んだ」という理由で、インド・ムンバイに住む27歳の男性が両親を告訴しようとしている。」という記事を先日に読んだ。半出生主義者というのか、私はこれに近い考えを持っている節もある。生きていれば確かに、もう死んでもいいと思うくらい幸せだと感じる瞬間があったり、胸が震える素晴らしいものにも出会うし、天国のような夕焼けを見るとか、そういうことがある。空の青さを知ったりとか。さそり座の一等星は爆発寸前だから赤いのだとか、覚えたり。

子供が全く欲しくない訳ではなくたとえばこの先のパートナー次第では子供を持っても良いとは思うけれど、私が生んでしまった為に多かれ少なかれ、大なり小なり辛い目にあったり悲しい目にあったりしなければならないなんて、それはかわいそうだ。

悲しむ私を見て悲しむ母を見ているとそう思う。母は私を産まなければ自分の子供が悲しむことはなかったし、それを見て自分が悲しむこともなかったのに。完全な半出生主義者でもなければ絶対に子供が欲しい訳でもない曖昧な私だが、1つ確かなことは仮に子供を持ったとしても、日本では育てたくない。

 

まぁ、そんなことはいい。そうだ、小説の話に戻ろう。今日は森茉莉の甘い蜜の部屋、という500ページもないけれど紙が分厚いから1600ページくらい厚さがあるように見える小説を鞄に入れて、移動中に読み進めた。重さは気にしない。これは昨日から読み始めたもので、私は純文学の文体が難しいと思うし苦手で最後まで読めた記憶がほとんどないのだけれど、彼女の文章は比較的読みやすいと感じるから時間がかかっても読み切りたい。

 

前述したように食欲がないのでお昼ご飯を食べたら夜はもう食べないことが多かったが、今日はお昼過ぎから出かけて、あれこれ見ていたら夜になったのでそのまま銀座で夜ご飯を食べた。鶏肉を主に扱っているお店でお鍋や焼き鳥を注文して、日本酒を一合と梅酒を飲んだ。日本酒はだいたいどこも一合で注文するというか、最低の量が一合なことが多い。私はそれを1人で飲むのでさすがに日本酒を飲んだ後はいつも軽く酔う。母は日本酒を飲まないので。ウィスキーや焼酎も。

このご飯屋のほぼ目の前にYAMAHAの本店があるから、まだ営業時間内だし寄って楽譜でも買おうかと思ったら今日は定休日だった。楽譜はネットで買うことにしよう。

それから隣の家の人に、明日うちにお茶しに来ない?と誘ってもらったのでそれ用の手土産を探す為に銀座三越に来て、最初は地下2階をウロウロと探し回ったけれどバレンタインという時期柄か混んでいて身動きを取るのが大変だった上にとくにこれというものも見つからず。3階にあるLADUREEに行ってマカロンにしようと決めた。ついでに併設されてるカフェにも寄ってケーキとロイヤルミルクティーを頼んだ。私はたまらなく幸福になる。外は絶えることなく人間や車が行き交っている。やっぱり、銀座は好きな街だ。

母親は女友達って感じ。恋人の(ただ、付き合ってることは言っていなくて私の好きな人というていだが)話をしたり交友関係の悩みが多い私はそれを母に言うこともできる。母に言えば一緒に怒ったり悲しんだりもしてくれる。一緒に喜んだり幸せにもなってくれる。いつでも私の見方。ケーキを食べたり、コーヒーを飲んだりショッピングもする。喧嘩もするし言い合いもする。仲直りもする。

 

1人でかかえるなんて無理だ!!どうにかなってしまう!!という事態に直面した時、素直に今こういうことがあって辛い!悲しい!と人に言えるようになったことや、元気?とか大丈夫?と聞かれた時に元気じゃない、大丈夫じゃないと言えるようになったことに自身の成長を感じるし、私のそんな回答を許してくれると私は知っていて、さらには励ましてくれたり適切なアドバイスをくれるような人々が周りにいること。ご飯やケーキを食べに行こうと誘える友達もいること。きっと、たまらなく満ちたりている。別にご飯もケーキも食べなくてよくて、公園のベンチとかで2人で座っているだけでも満ちたりるのだけれど。

事情がわかんないときに、ついつい悪い方に考えがちだけど、 心配する時間が 辛いから 前向きに考えるようにしてる!

そういう時こそ 自分磨き!

人は変えられない。自分が なりたい自分になっていれば 私は ま いっかって思う

交友関係に悩む私へ、知人がかけてくれた言葉を想って、私は足の爪にCHANELのヴェルニ ロング トゥニュ 588を塗った。